テストが終わり、2008夏

2008年07月31日 11:13

ゲッソリうぃ〜


テストが終わり、ようやく夏をエンジョイできる。

のはずだが、いざ夏どうぞってされると何をやったらいいのかと迷ってしまうあり様。

とりあえず、バイト以外の計画を今日中に立ててしまおう。

着せ替えがそんなに楽しいか!

2008年07月31日 11:10

20××年……デカサイズのぬいぐるみに着せてある服をはがして自分で着ちゃうっていう嗜好がブームに。

っていう夢のような現実に起きたお話。

一人暮らし改めN人暮らし

2008年07月25日 21:23

最近してみたいことがある。

それがN人暮らし。

完全に自分の造語で妄想なので、これを話したときのヒトの反応が「はっ?」って感じになるのは予想済み。


「N人暮らし」

一人暮らしをしてみたい。

っていうヒトの多くは、

好きな時間に友達&彼女を呼び込めて、夜遅く帰ってきても鍵が閉められて家から締め出されるなんてことがない、学校・職場が近い=朝が楽。

っていう理由が主だろう。

でも一人暮らしって、

・炊事・洗濯・掃除などの一般家事を自分で全部やらなきゃいけない。

・家賃が高くて自分の力だけで払えない

・ずっと一人暮らししていると堕落してしまう

・飯がまずい

……etc

といった面倒なことも後には控えていて、なかなか交通便の良い実家であれば外に飛び出してみるという気が起きないとういのも事実だろう。

そこで考えてみた。

一人暮らしの「ウマイとこ」だけいただいて、「面倒なとこ」をなるべくなくしてしまうのにはどうすればよいか、ということを。

したら、答えは意外と簡単に出た。

そう、それが「N人暮らし」という概念である。

手順

1 まず、N人の有志を集める。

2 保証人を見つける。

3 共同出資。

4 新たなる生活の集まり。


つまりは、部屋をレンタルして、好きなときだけ使って、あとは放置するという作戦なのである。

ただ、一人でこれをやる場合、お金の負担もバカにできないので、やはり多勢でやるべきだと考えている。

一人ひとりタイムテーブルを決めて、専用で使う日とか、時間帯とかができれば最高だ。

もちろん、共同出資したヒトたちがたとえばテスト前で家に戻っている暇がないときなんかは、そこで合宿を開いたりするのなんかもアリだ。
なんとまあ実用的な案だろう。

とりあえず有志を探すことからはじめよう。

一位以外はあれだが

2008年07月23日 21:37

好きなアニメランキング

是非見て欲しい。
この選択肢の中に「あれ」があったこともびっくりなのに、まさかの一位。
嬉しいかぎりだ。


そもそも、「好きなアニメ」(「好きな本」でもそうだけど)を選ぶ際、ほかのヒトたちはどういう基準を持っているのだろう。

僕の場合、“インパクト”というか印象強さ、つまりあとになっても思いだすと見ていたときの感動が蘇ることが挙げられる。

これはキャラクターであったり、思想、音楽、シチュエーション、セリフ……etcの総合評価(評価というほどでもないけど)で導き出されるのだが、

たとえば「スクライド」の場合……

キャラクター:カズマ、クーガ
セリフ:クーガの言葉、イントネーション。カズマの負けそうになるときに出る一言。
思想:常に全力で生きることに意味がある。


では、2位以下の場合はどうか。

前どっかのアニメ評論誌でもランキングをやっていたが(去年の作品に限定していた)、今回の二位以下が1位になっていたりしていた。

上位には「グレンラガン」など最高にアツいアニメも入っていたが、これの理由としてはやはりストーリの良さ、独特な世界観などが挙げられていた。

で、「らき☆すた」とか(まああとのも似たようなやつ)が上位になっていたのは、キャラクターがダントツに良い、という理由からだった。

↑意味がさっぱり分からん

なにか、今の時代では「萌え」がなにをさしおいても(事実、ランキングからストーリー<<思想<<キャラクターという感じを受けた)「面白い」と感じるための最重要ファクターなのか?

納得いかないな。

アニメで出来ることは色々あるんだから、こんな見方をしているとホントつまんないものしか残らなくなると思う。

小説でもそうだ。

映画化しやすいものばかり、分かりやすくて薄っぺらいものばかりウケが良いように報道するメディアと、業界、それになんの疑問も感じずに受け入れてしまう若い衆。

こんな構造では、良い作品なんてどんどんなくなっていく。

結果、有意義なものを大衆に……という目的で始まった大衆文化は、大衆の思想を制限するただの見えざる権力に成り下がってしまう。いや、もうなっていたりして。


メディア批判は絶えないが、ここいらで一旦ストップ。

また後ほど。


ああ、「崖の上のポニョ」が観たい。

多感?

2008年07月21日 02:20

今日は地元で花火大会があるらしい。

さて困った。

誘いたい子はいるんだが、絶望的に金がなかったりして無理。




それはさておき、テストが近い。

周りが騒ぎ立てているほど自分はやばくもないのだが、一応ノッてみることにしている。

でも勉強は自分でするものだろう。

やたらめったらへりくだって他人に聞くのも、積極的に解説して回るのも、正直そういう輩見てるだけでお腹いっぱいなので、自分は到底しようとは思えない。



そもそも、外見に中身が伴ってないヤツのなんとまあ多いことか。

外見って、見た目だけじゃなくて、外面っていうこと。

軽い口をたたいて、事実それに見合った責任を負うことすら意識しないものたち。

そんなやつらが、まるで「カリスマ」か「ネ申」かのごとく扱われている若者の集団。

若いやつと付き合うと、そんなことばかりが気になってしまう。



疲れたよ。

身の回りを整理した方がよさそうだ。

ウケル技術

2008年07月16日 20:03

心の中ではすごく触れあいたい。

でも、何かを言って失敗するのが怖い。

結局なにも言わずに一日が終わり、一週間が終わり、一ヶ月が終わり……。

そういう自分がイヤで、悩んでいるヒトに向かって他人は決まって、自分から行かなきゃ、とか、気持ちが足りない、とか言うものだ。

でも、ちょっと待って。その助言でホントに合ってるのかな?

だって、本人はあふれんばかりの気持ちがあって、それだからそれを上手く言葉にできなくて、苦しんでいるんだよ。何かを言い出しても、それがはたから見たら嘘っぽく聞こえてしまうのではないか、って不安に感じているんだよ。

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コミュニケーションとはサービスである。

そして、ヒトは常に最高級のサービスを受けたい。

でもどんなシチュエーションであれ、たとえそのサービスが最高級のものじゃなくても、その人にそういうサービスをする気持ちがあるということが分かることが、もうすでに心と触れ合っているのではないだろうか。

さらに、心のこもったサービスをするには相手に対する「愛」が必要になる。

愛のあるコミュニケーションとはなにか。

それは、

「相手を笑わせる」

ということに他ならない。

つまり、気持ちを言葉にしたいヒトで、失敗を恐れているヒトは、実際に何を恐れているかといえば、

「相手にウケないんじゃないか?」

ということである。

これはすごく高尚な悩みではないだろうか。

相手の笑顔を見たい、というのは自己本位のヤツらには真似できない、相手を思いやるという意味ですごく美しいことだと思う。

ただしこの場合、調子に乗りすぎると「自分が面白い、面白いことを言う=ウケる」と勘違いしてしまうところだが、それは全然違う。

相手にウケる、ということはこの場合、相手を満足させる、相手を立てて気持ちよくさせる、ということがあくまでも根底にあるのである。

だから相手にウケたからといって、自分が面白い!ということでは断じてなく、相手の表情や空気を読んだり、相手の気持ちを読み取ったということ。つまりは、心の触れあいができたということなのだ。

ここにおいて最初の「心に触れたい」という目的は達成される。

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今、周りをみると、ほとんどのヒトが「勘違い君」か「モジモジ君」である。女の子はそもそも自分から積極的に行かなきゃいけない!っていう考えになるような環境下にいないことがほとんどなので、そんな状態になることもないわけだが。

「モジモジ君」はまだ見ててこっちまではにかんでしまうので可愛いもの(人畜無害)なのだが、「勘違い君」はホントにイライラする。本来の目的が「ヒトを愉しませたい」ということなので、本人を責めることはしたくないが、いつか自分で気づいて、ひとりでに恥ずかしくなればいいと思う。

まぁ、自分はどっちかというとまだ「モジモジ君」の方でありたい。

と、そう考えることが多い最近です。

2008年07月12日 22:58

最近自分が自分ではない。

ヒトに対して興味、関心がない。

あるヒトを目の前にしても、何も思い浮かばない。

特に異性に対しての無関心度が甚だしすぎて、相手に対して申しわけなくなってしまう。

、、、いや、これが自分なのか。

今までこのことを意識してこなかっただけなのかもしれない。

意識下にあったものが、ただ水面上に浮かび上がってきただけなのかもしれない。

そもそも、他人に対して興味が持てないというのは、自己の生存の目的を一つ見失っているということなのではないのか。

さてどうしたものか。

across the universe

2008年07月11日 01:24

8/6公開予定のミュージカル映画。

across the universeと題されているだけあって、宇宙規模の愛についての映画らしい。

それはそれで楽しそうだが、全編にビートルズの曲が使われているのはすばらしい試みだ。

是非観に劇場にいきたい。

映画紹介

Money

2008年07月07日 22:35

お金が貯まらない。

これ以上の負債は溜めないようにはしているが、手元にお金があるとついつい使ってしまう。

これって病気なのだろうか。というのも、そのことを親に言われたからだ。

今は大して稼いでいないので、所詮使っているのもその程度ということになるのだが、将来的には、給料の中から同じだけの比率で使ってしまうのだろうか。そうなってしまったら本当に病的だといえるのではないだろうか。

ところで、どうしたらお金が貯まるのだろうか。

使わなきゃいいだけなのだろうが、いかんせん色々と買うものが多すぎる。

服、楽譜、撮影費、書籍代、楽器代、飲み代、交際費……

これらのうちの優先順位をつけろということなのだろうか。

となると、

楽器代

飲み代

交際費

撮影費



書籍代

がそうなるな。

あとは、管理を常にしておくことでモチベーションを上げること。

今のうちからそれらを習慣づける必要がある気がする。

がんばろう。

あぁ

2008年07月05日 20:48

最近振り回されてばかりだ。

自分がやろうとすることに賛同してくれるかと思いきや、土壇場になって抜け出す。

この連続、繰り返し。

結果が果たされないのならば、一つの目的のために払わされた犠牲なんて、何の意味もなさない。

そればかりじゃなく、責任者としてもたたかれる。

あっちもこっちもどうにもならんです。

こんなときに支えてくれるヒトがいてくれたらなぁ……と思うが、結局このためだけのために存在するなんて、そんな都合の良い人間関係も求めていないから、何一つ手に入らないのか。

時間とお金ばかりがなくなっていく。

精神が果てそうだ。

弱さ

2008年07月02日 17:13

最近バイトをしたり、新しいサークルに行ってみてよく分かった。

自分ができないこと、やろうとしてもなかなかうまくできないことが大勢あるっていうこと。

どんなに突っ張っていても、結局助けを求めるときがあるのだということ。

わざと矮小な振りをするのは根性が腐っているヤツのすることだけど、尊大な振りをしたり、自分を誇大してみせようとするのは、他人から見たらどうか。ヒトがどうこうするときについてくる意義は、結局は他人にどう見られ、感じとられるかに依存する。さらには一時的な感情のみならず、その後に引き起こすかもしれない感情にも気を配るべきだろう。

こう考えると、普通に生きるのって、なんと難しいことか。

慎ましくあろう。

「なくしてから気づく」

2008年07月01日 00:26

「亡くしてから、あのヒトが自分にとってどれだけ大切な存在か気づいた」

「無くしてから、あれがどれだけ大事なものかって分かった」

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人間とは、現代人とは、私とは、貴方とは、なんと愚かな存在だろうか。

このことを、透析の患者さんとのインタビューをまとめている時に思った。

透析に限らず、病をわずらっている患者は健康なヒトと比べると、これは偏見かも知れないが、健康の事により気を使っているし、より健康であろうとする。

これはよく分かる心理だし、なにも不思議じゃない。

でも、彼らは言ってみれば、所詮は健康体たりえないないわけで、末期の癌のヒトなんかはほぼ助からない。

自分にとって本当に大事なものってなんだろう。

無く(亡く)なってしまってもおかしくないもの、でもそれがないと困るもの、がそれにあたるのだろうか。

今のところ例外はないような気もするが、なんだかこれのために生きるのかと思うと、生活に常に束縛感が生まれて少し嫌な気もする。

これはごく個人的な感覚だってことはなんとなく分かるのでおいておくが、以上のことを踏まえると、、、

人間(生命)とは危険や可能性を顧みないものであり、差し迫る危機を平気で見過ごすものである。

結果、失望したり、慰めを求めたりするのだろう。(まあ、これは原因と結果の関係のみに因るものではなく、個人の自我の未発達によることもあるが。)

だが、この一連の行為を人間の所為として捉えてしまうと、もうこの行動公式に則って「素直」に感情を表したり動いたりできなくなる。私のように。

一旦あるべき行動様式からはずれてしまうと、繊細な感性を持っているように振舞っているつもりが、常人のそれより劣ってしまうようになる。

要するに、あらゆる人生の経験が白けて見えるのはある程度達観したものにのみあるものだが、一度達観したものはそれ以上経験をつんでも、その経験に対して向き合えないために当人にとっての経験は常人以下にしか積み重ならないということ。

なんだか、常人って言葉を乱用している気もする。自分が常人でありたくはないが、所詮常人だということを認めている証なのか。

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久々にまともな思考ができそうだと思ったけど、取りとめもない話になりそうなので一旦この話はおしまい。また今度。


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